Reframing-歪みからの脱却-

 また胃を痛めたようだ。途切れ途切れの痛みが波のように襲ってくる。それにも関わらず辛い料理を作りひたすら食べる。食べ物の味ですら判別の危うい精神状態ですらこのような生活を続けるのは、年齢を重ねるとともに減る楽しみを「痛覚」という形でごまかしながらなんとか自我を保っているせいなのかもしれない。

 身体が錆びついてしまっている。昨日は電話でクライアントと揉めながらようやく納期に間に合いファイルの提出を済ませ、その後は魂の抜けたように呆然とベッドに寝っ転がっていた。

 夏場は膠原病で外に出られないためライターをしているが集中力の振れ幅が安定せず、文章がまるで書けない時がある。何を書こうとしていたのかまとめたはずなのに、まとめたことをまとめるという作業に気が滅入ってしまう。過集中の時にカレンダーに管理したTodoリストの一覧を見ていても、そこから自分の身体は一歩も動きそうにないし、朝起きてタスクを確認してもなぜか何もかもが虚しく悲しく思えてきてしまい、それから自分でもわからないような何者かに対する憎悪が心の底から湧いてくるのだ。

 書いている途中に外を見た。お気に入りだったロールスクリーンが壊れてしまい、下まで斜光ができない中途半端な日光が差す陰鬱な部屋になってしまったことを悔いている。寸法をはかり、新しいのを張り替えなければいけない。今これを執筆しているのは六月であるが、僕は光線過敏症で夏場に外に出られないという持病がある。梅雨が明けるまでにせめて見栄えだけでも心地の良い窓にしなければ。

 やらなきゃいけないことはおそらく大量にまだ残っている。それでも、なぜか脳全体の細胞がまるで凍ってしまったような感覚で頭の処理能力がまるで追いついてこない。なぜ人体はオーバーホールが出来ないのだろうか。体の疲れ、脳の疲れ、心の疲れ、五臓六腑の疲れ、すべてバラバラにして汚れを取ってまた綺麗な体に戻せたらどれだけ良いことか。こんなことを文章に起こしている以上そもそもまともな脳みそのつくりをしていないのだろうが、とあるコラムで見つけた「リフレーミング」という思考の整理方法を実践してみる。要するに「いま現在抱えている問題の解決」というより「いま現在抱えている問題はむしろ長所だ」というパラダイムシフトのことである。

 親しい知人に「人間じみていないところがある」「認知の歪んだ狂人」「おそらく統合失調症を発病しているだろう」と言われたことについて考えてみた。ただ今こうしてテキストに起こして自分と向き合っている、また悩んでいることは「僕が人間であること」の裏返しなのではないだろうか。

 物心ついた頃から変な子だと疎まれて育ってきたが、「自覚のある狂人」であるあたり「自覚のない一般社会に紛れ込んだ狂人」よりはもっとずっと良識があるまともな人間という証拠かもしれない。

 いま現在ではようやく「発達障害」が認知されてきているが、思えば、「狂人」「変人」「天才」というレッテルの貼られ方をしてきた自分の人生は、おそらく自分でも全てを把握できないであろうほど強烈なマイナスの感情を芽生え、増幅させていった。「きっと自分は選ばれた人間なんだ」などと思ったことは幼少期からこれっぽっちもなかったつもりだし、

「自分はどこか知能に障害があるのではないか」

「僕が生きている世界はこんなにも陰鬱で絶望的」

「きっと違う誰かはきらめいた希望の世界を生きている」

「そして後者が本来あるべき価値観なのではないか」

ということはまだ生きた上で振り払えない雑念である。

 この性分のせいで、自分の人格は何かの拍子に豹変し、人間関係や学校生活、アルバイト、社会人としても影響を及ぼし、今まで正直なところ自分の意に反する人間をどれだけ路頭に迷わせてきたかわからない。

 

 正直、これっぽっちも反省していないし償うつもりもまるでない。

 だが僕ももう26才だ。このマイナスの感情を自我で抑え込むことがある程度できるほどの分別はきっとつけられるようになってきている。僕は僕をきちんと理解し、せめて同じ苦しみを持つSNSの仲間にだけは僕のできることで役立ちたいと思うようになった。

 ネットで様々な人が亡くなり、なんだかんだで生き恥を晒しながらも20代後半になってしまった。「10代の頃こうしておけばよかった」「こういう風になっちゃダメだからね」などとアドバイスするつもりは毛頭ない。

 

せめてここまでこの稚拙な文章を最後まで読んでいただいた方に、

「コイツまだ生きてんのかよwwwwwwwwwwww」

老害乙wwwwwwwwwww」

「コイツの話なんも参考にならねぇなwwwwwwwww」

「そんなことよりスマブラやろうぜwwwwwwww」

という方がいらっしゃることを願っている。

結局のところ結論を引き延ばしてもがいて生きるしかないんだろうな、ていうただの殴り書きだけれど、色んな方々が色んな形で姿を消した、または命を絶ったというのはSNS依存している僕にとってはとても悲しいことだし、それならば僕も生き残ってしまった以上はSNSでお世話になった方には何かしらで恩を返せるような人間になれるように少しずつシフトを始めている。

思い返すに。あれだけ馬鹿な人生歩んできたけれども。

「何かあったら助けるから、何かあったら助けてね!」と言い合える関係の友達が少しでも増えたらな、という方向に少しずつ近づけるような人間になっていきたい。

「結局良いところも悪いところも治らないのだからこのままでいいや!」

「本当に悪い人間になってしまうのならきっと仲間が止めてくれる!」

という自分なりの「リフレーミング」についてのブログでした。気が向いたらまたなんか書きます。

 

Friendship-男と女-

「男女の友情は成立するか?」というテーマはなんかもう人生で死ぬほど見てきました。

個人的には、「成立する。」だと思っています。

「そんな訳ないだろ」「嘘つくなよ」と叩かれることも多々ありますが、おそらくこの2つの条件を満たせば其れは成立するんじゃないのかな?と思っています。

・お互いが適度にモテる
・お互いがお互いのタイプではない

まぁ実際この条件が成立しつつプライベートで仲良くできる、というのもなかなか難しいところではあるので、「異性として見られたくない」というのが個人的に強いです。

好きだけど仲良くできない、というのが辛いので性別なんかみんななければいいのになとも思いますが、それで世の中が回るわけでもないし、未だに上手くバランスを取れずにいます。

終末と理解-terminal care-

目が見えなくなったら。

匂いがわからなくなったら。

味覚がわからなくなったら。

触った感覚がわからなくなったら。

耳が聞こえなくなったら。

この世界から何もかも無くなったら。

きっと良いことも悪いことも全て無くなるのでしょう。僕にはそれがとても幸せに映ります。

「辛い」「居なくなりたい」「苦しい」がおそらく自殺の主な原因であるのでしょう。

僕はそれが真逆なのです。幸せだから、今の価値観や状況でとても満足だから、生きている限り知らない事に触れてしまうことに耐えられず、「このまま全てを終えたい」という思いが常にあります。

プラスでもマイナスでもなくゼロになれたら、きっと何を感じることもなく安らかに眠れる状況が永遠に続くのでしょう。




Whereabouts-存在と行方-

「周りの人が生きている」ということを僕たちは普段どのように感じ取っているでしょうか。

声を聞いたり、文章を読んだり、会ってみたり、親しい人ならば触れ合ってみたり。

Twitterというマイクロブログを始めて5年以上経ちますが、其れを通していろんな人を眺めてきました。

不思議なことに、好きな人ほどインターネットから消えてしまうことも多く、その度に寂しい思いをしてきました。

もちろん何か他に居場所を見つけて、本人が元気でやっているのなら其れはとても喜ばしいことです。

しかし、自分の視点から好きな人を観測出来ない以上、それは僕の中では「親しい人の死」なのです。

辛いのなら仕方ありません。
飽きたのなら仕方ありません。
見たくないのなら仕方ありません。

勿論自分の個人的な欲望に過ぎないのは承知ですが、好きな人には居なくなってほしくないのです。

無理に生きろとは言いませんが、たまに元気な姿を見せてくれると本当に嬉しいです。
責めて何も言わずに逝くことは止めてください。

人間である以上、出会いの後に別れてしまう事は避けられないものですが、「あの人今頃どうしているんだろうな」という想像の中身が幸せであることを切に思います。

Refuse-意識と疾患-

僕は膠原病精神疾患を患っています。
どちらも実際治るものではありませんし、薬を服用しながら症状を抑えて日々生きる、といった日々を過ごしています。

どうしてこの2つの疾患が辛いのだろう、といったことをよく考えますが、おそらくこの3つの点にあるのでしょう。

・治る見込みはない
・直接寿命に影響するわけではない
・薬の飲み合わせ上、「苦しい」という意識から抜け出すことができない

大げさに言えば、薬を飲み続けている限り「苦しいことが生きている限り続く」ような状態です。

抗不安薬精神安定剤でマイナスの感情を和らげながら、ステロイド剤の副作用でうつ状態を起こさせるという最悪の組み合わせです。

実際、「うつ」で直接人が死ぬわけではありません。言い換えれば、「うつ」は「人を生きさせない」という病気でしょう。

ここで僕が疑問に思うのは、「死にたい」という感情と生存本能がなぜ相反してしまうのだろう、といったことにあります。

「死にたい」と「生きなければいけない」という意識を脳がいっぺんに持つ、という感覚が頭でも体でも理解できないのです。

悲しいことに、日本では「安楽死」=「殺人罪」というのが現状です。
しかし、「決して治らない障害」と「死ぬまで続くであろう心身の苦痛」を抱えながら生きていくことが果たして正しいと言い切れるでしょうか。

苦しんだまま生命の継続を強要されるということ、それこそ最早「虐待」や「拷問」そのものではないでしょうか。

社会保障費、医療費、自己決定権、幸福追求権など様々な面から見ても、「死を肯定すること」が悪いことだとは到底思えないのです。

「延命措置にしか成り得ることのない人生」、「生きるのに値しない命」の存在を認めてほしいのです。

幸せになる為に「拒む」という事が認められる社会が何時か来るまで生きる。
その姿こそが「死」という希望の為に生きているという事なのでしょう。

Risk-慟哭と誕生-

「人は裸で生まれた時は だれも愛され 同じなはずが
どうしてなのだ 生きていくうち 運命は分かれ むごいくらいだ」

「子供は生まれて来た時に泣いているでしょう?あれはそういう事。能くも私を産んで呉れたな。ハイリスクを背負わされてまでの不確かな幸せなんて、欲しくなかった。真なる愛と救いの中で、永遠の無でありたかった。怒りと、嘆きと、悲しみ。それこそが彼らの産声」

という歌詞と文章をよく頭に思い浮かべます。

「育ててくれてありがとう、でも産んだ事は絶対に許さない」 

僕は両親に対して常に思います。

もちろん今現在こうして生きていて文章を綴ったり、読んだり、音楽を聴いたり、作ったり、大事な人と出会って会話をしたり、美味しいご飯を食べたり、幸せなことも沢山あります。
その反面、離別だったり、近い未来への得体の知れない不安だったり、突然胸に痛みが突き刺さったり、薬の副作用に苦しんだり、理由もわからずにただひたすら悲しくなってしまったり、不幸なことも同じように存在します。

僕の幸せが幸せである分、僕の不幸も重くなっていくのです。

それならば、

なるべく平坦でいよう。
何事にも動じないでいよう。
幸せに酔わされないようにしよう。
不幸に溺れてしまわないようにしよう。

今日も静かに寿命を待つ1日です。

Positive-真なる素直-

「素直な人が1番だよね」
「素直な方が友達に恵まれるよ」
「素直な方が生きてて楽だよ」

とは言いますが、そもそも「素直」とはどういうことでしょう。

・ひがんだ所がなく、人に逆らわないこと。
・心が純真さを失っていないこと。

「人の言うことをなんでも聞いて、それでいて逆らわず、純真でい続ける。」

果たしてこのように我慢して振舞って、何が残るでしょうか。

人に慕われるでしょうか。
人に愛してもらえるでしょうか。
人にもっと自分を見てもらえるでしょうか。

答えは否、というよりも「人にどうでも良い存在と思われる」ことが強くなってしまった、というのが個人的な人生観でした。

もちろん「素直に生きよう」という考え方自体は素晴らしいものだと思います。
しかし、「その結果人にどう見てもらおう」と『期待』した瞬間、無駄になることも多いのではないでしょうか。

そもそも、『期待』することなんかやめましょう。

信じるから裏切られるんです。

「不幸前提、幸せだったならラッキー」くらいに思っておけばいいのです。

例えばなんとなく期待せず人と巡り会って、その結果大切だと実感できた方が幸せはより大きく、より予想外に感じられるのではないでしょうか。

「期待ハズレだ!」
「裏切られた!」
なぞ、そもそも存在しないのです。
あなたが勝手に期待して、勝手に絶望しているだけです。

僕には恋人がいます。
もちろん仲がこじれる前提でこうしたことを書くのではないのですが、人間関係は元々「人は離れて当たり前」「一緒に居られること自体がとんでもないイレギュラー」くらいに思っています。
離れて当たり前だと思っているからこそ、より今一緒であるという喜びを感じたいのです。

「そういえばいつも一緒だったなぁ」という人間関係こそ大事にしていきたいな、と毎日のように思います。

「少し捻くれて、なおかつ素直にポジティブに生きる」という自分の生き方を文章にしてみました。

読んでいただきありがとうございます。